お彼岸を迎える前にお彼岸とは何のために行うのか考えたいと思います。現代社会では自分の私利私欲のために人を殺め、怒りや憎しみで人を傷つける。
金のためなら何でもやるような世界、それが私たちの暮らすこちら側の世界だとしたら、みんなが助け合い、譲り合い、いたわり合う世界が岸の向こうのお彼岸の世界(涅槃)です。
お彼岸から見ればまさにこの世界は地獄絵図に写るでしょう。
しかし、春分、秋分の日(前後3日の7日間)はご先祖様を偲び、敬い、彼岸に向かう心の日なのです。
そして、彼岸に渡ることは人間としての修行の完成を意味します。
実はその心の状態が自分自身の本当の幸せに繋がる事になると言うことが意外と知られていません。
今日は、「現代社会とお彼岸」そして「お彼岸と認知症」の話をしたいと思います。
最後までお付き合いいただくと、人に優しくなります。
そして心の疲れが少しだけ取れると思います。
さて、不景気が続く中、昇給も少なくボーナスも下り坂。
会社勤めのサラリーマンの不平不満が聞こえてきそうです。
会社組織は階級社会ですから大会社では会長をはじめ、社長、専務、常務、部長や課長などの役職の方がいます。
役職の無い人から見れば係長の采配に不平不満が、係長から見れば課長に対する不平不満が、課長から見れば自分に対する部長の評価が気に入らない。
部長は自分の保身で専務の派閥か?常務の派閥か?役員は次期社長が自分か否か?そんな心が見え隠れ。何だかろくな会社ではないような気もしますが、現代の競争社会においては普通のことでしょう。
でも考えてください、課長は課長、社長は社長なりの悩みや苦しみがあります。そして欲が捨てきれず、この競争社会で苦しみぬくことになるのです。
お釈迦様は自分という執着こそが苦しみであると説かれています。
「生まれも苦であり、老いも苦であり、病も苦であり、死も苦であり、憎い人に会うのも苦であり、愛する人と別れるのも苦であり、欲する物を得ないものも苦である」。
要約すると、自分という執着が「苦」なのである。
このように生病老死(しょうびょうろうし)などの四苦八苦(しくはっく)が説かれています。
会社では、嫌な上司に笑顔で挨拶、限界までがんばっても念願の管理職のイスがまわって来ない。
さらには、後輩がいつのまにか上司に、まさに、四苦八苦の世界です。
お釈迦様が説いた四苦八苦の苦は「思い通りにならない」という意味ですから現代の競争社会では四苦八苦から逃れるのはかなり困難であると考えられます。
しかも、昔であれば幸せを感じたことが、物の溢れた現代社会では幸せと感じなくなります。
例を挙げると昔は「いつかはクラウン」などというコマーシャルがありましたが、今では免許を取るとローンでそのクラウンを買う青年もいますし、テレビも一家に一台から一部屋に一台に、電話は一人一台の時代に、便利になるのは結構なことですが幸せを感じにくくなりました。
お釈迦様の言葉では、思い通りにならないのは当たり前、「この体が年老いて死すべきものであることは私の思い通りにならない」、私の思い通りにならないものは私のものではない、私ではない。
つまり、自分の体でさえ思い通りにならず、自分のものではないのなら、この世に自分のものなどない。ということで、この考えを基本に考えると人を差別しなくなります。差別がなくなると平等という言葉が出てきます。
その平等こそ認知症の(にんちしょう)介護に役立つ考えです。高齢化社会を迎え、痴呆という言葉をよく耳にするようになりました。そして、介護という言葉も。しかし、老人介護の用具や用品、そして機械化された様々な介護用品が出回る中、介護に一番必要な心の問題はなぜか、取り残されていると思います。
先ほどの「四苦八苦」の中でもあったように。苦とは自分の思い通りにならないことです。例えば認知症の老人が間違ったことを言っている時にその間違いを正してみても、苦しみを取り除くことは出来ません。逆に不安が増し精神状態が不安定になります。相手の言葉の背景を理解し相手に共感するのです。
客観的な現実を突きつけるより、相手の主観的な見方に立つのです。
例えば数分前のことを忘れてしまう認知症のお年寄りがいます。そして、「病気の母に食事を作らなければ、家に帰らなければ」と言い、そわそわしている認知症の患者さんに「あなたのお母さんはとっくに亡くなりました」と言い聞かせ、客観的事実を押し付け、頭を混乱させるよりも、「それでは自宅に帰りましょう」と言って一緒に歩き散歩している間に、数分前のことは忘れて安心して自室に帰ることができます。
思い通りにならなければ人は苦しみます。認知症の人も同じです。
平等な心を持ち、思いやり、理解してあげる。お彼岸の風景そのものです。自分自身でさえ思い通りにならない私たちは、いかなる相手に対しても偏見を持ってはならないと思います。
まさに私たちが生きるこの此岸(しがん)の現代社会にこそ、お釈迦様の教えや日本人の文化であるお彼岸の心が本当に必要なのではないでしょうか。
最近よく耳にするのが「家族葬」という言葉です。そして「散骨」という言葉も耳にします。その前に、いったい「葬儀」とは何のための儀式なのか、そして[散骨]とはどのような儀式なのか、そしていつ頃から現代の形になったのかを考えてみたいと思います。
本来、葬儀とは遺族、親族、友人、知人など、故人と縁(ゆかり)の人たちが故人を偲び、追悼する儀式です。 それでは、日本では一体いつ頃から葬儀が今のような形になったのか、「家族葬」や「散骨」の記録はあるのか。
実は、私は今の葬儀の形になったのは大政奉還以後、明治維新の後だと思っていたのですが、よく調べてみると国を含めた激動の歴史があるようです。
日本は昔から土葬でしたから、今のように葬儀の後、火葬場で荼毘に付すことは無く、直接お墓に行き埋葬していました。火葬禁止令が明治7年に廃止された後、火葬は定着しましたが、土葬は現在でも皆無ではありません。
葬儀の歴史を語る上では、火葬の歴史とお墓の歴史を切り離すことはできませんから、交えてお話しします。
まず始めに、日本では縄文・弥生時代からすでに死者を埋葬し、お墓を造る習慣があったようです。弥生時代になると身分の高い者は石棺などに納められ埋葬されています。
その後、3世紀後半以降になると権力者の巨大な古墳が造られるようになります。皆さんよくご存知の「古墳時代」になるわけです。
実はこの後、西暦646(大化2)年の大化の改新で「薄葬令」(はくそうれい)が出されています。つまり葬送に多大な財や労力を費やすことなく、葬礼や造墓については身分ごとに規定し、集合墓を造ることを定めたわけです。
そして今までの旧俗の禁止(殉死、殉葬、副葬などの禁止)を指示しています。まるで、バブル期で派手になり、無駄な浪費が当たり前になった反省から簡素化を図り始めた現代の葬儀傾向とよく似ています。
その後、西暦700(文武4)年に奈良の元興寺の僧侶、道照(どうしょう)が遺言により火葬されたとあります。これが日本で最も古い火葬の記録で、1306年前の出来事です。
その3年後の703年には持統天皇が天皇として初めて荼毘(火葬)に付されました。持統天皇の在位は690年から697年ですから、退位の6年後のことです。
さて、西暦840(承和7)年には淳和天皇が散骨されています。上皇は死に臨んで、ひとつだけ自らの意志を押し通し、「葬儀や山稜は一切無用、遺骨は山の上から撒き散らせ」。廷臣たちは、臨終の床にある上皇の決意を聞かされ仰天したことでありましょう。
確かに薄葬は時代の流れであるが(嵯峨上皇も薄葬を遺詔した)、帝王の散骨などは前代未聞です。しかし、彼の固い決意は変わらなかったといいます。54歳の死でありました。
遺詔通り彼の遺骨は粉々に砕かれ、平安京を見下ろす大原野の高い山の上から撒き散らされたと記されています。なんと1166年前の出来事です。「薄葬」が時代の流れとはいえ、こんな昔に「散骨」の記録があるのは驚きです。
その後、鎌倉後期から室町時代にかけて禅宗(ぜんしゅう)の僧侶により中国から位牌と戒名が伝えられます。また、江戸時代に入ると多くの寺院の末寺が荼毘所(火葬場・火屋)を設けていたので、大部分の人はその寺院の仏教と管理で葬られ火葬されました。しかし、一部の武家などは菩提寺に土葬していたようです。当時の荼毘所が現在も桐ヶ谷火葬所など数箇所で現存しています。
この頃になると、奈良平安朝以降。明確になり始めた神仏習合(しんぶつしゅうごう)と呼ばれる日本独自の文化は江戸初期の「檀家制度」の確立により、祖先供養や葬儀、お墓に関する年中行事が日本人の生活文化の中に完全に定着していったのです。
しかし、明治元年3月には「神仏分離令」が発布。その令により、当時の復古的機運は仏教でさえも外来の宗教という点で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)として弾圧される時代です。
思えば、幼い天皇(当時15歳)を補弼(ほしつ)している人々が、政治を壟断(ろうだん)しているという批判に対抗するため、天皇自らが政治をするという体制を整える必要があったのでしょう。そのため「王政復古」「祭政一致」の現実を目指したのです。
明神、菩薩などの仏教的な神号を廃止すること。又、神社から、本地の仏像を取り除き、仏具を神社に置くことが禁止されました。
この政策は仏教を廃し、釈迦のすべてを否定して壊すことで、これまで、僧侶の下に置かれていた神官が、政府の威を借りて廃仏毀釈に走ったのです。明治3年から4年にかけて、頂点に達しました。
これらの政策により宗教界は大混乱となりました。また、追い打ちをかけるように江戸時代の檀家制度(全ての人が寺の檀家として所属させられた)により威勢をふるっていた仏教に対する反感と、低い地位に追いやられていた僧侶などから奪取され続けていた民衆は、徹底的な廃仏毀釈運動を展開することとなります。
しかし、政府にとっても仏教界の動向が必要な時期でもあるため、国家神道(神葬祭)明治政府は運動の行き過ぎを禁止する異例の通達を出しています。
明治元年末以降、強力な廃仏毀釈が行われた藩は隠岐、佐渡、薩摩、土佐、平戸、延岡、苗木、富山、松本などです。特に明治維新を起こした藩では民衆の参加も狂信的で仏像を始め、仏具、仏画、絵巻物、経典等、全てが破壊されました。今でも九州には有力な大寺はありません。
又、1876年頃まで運動は続き、半分近くの寺院が廃絶され、数多くの貴重な古文書や文化財が失われました。
このような激動の中、日本の文化である神仏習合は形を変えながら定着していくわけです。このことを考えると「葬儀」とは神道であれ、仏教であれ、日本の文化と結論付けられます。
お彼岸も文化です。歴史の中に文化は創られ、そしてまた、新しい文化は創られていきます。「家族葬」も心優しい、義理堅い日本人の文化になるかもしれません。
どうですか、この中を皆さんのご先祖さまが生きてこられたのです。1306年前の火葬、1166年前の散骨、位牌や戒名は意外と新しく、約670年の歴史ということになります。しかも中国からの文化ですね。
今、私たちが生きているのも激動の中、ご先祖さまが絶えず生きてこられたからです。
私には両親がいます。その両親にも両親が、また、その両親にも両親がいるわけで、なんと十代さかのぼるだけで1022人のご先祖様(兄弟、親類を除く)がいます。
一人でも欠けたら、私は存在しません。そのご先祖様に感謝して共にお彼岸を過ごしてみませんか。心優しく、穏やかに。
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